【映画「A FILM ABOUT COFFEE」】珈琲道の真髄を見た!

こんにちは、コジです。皆さんはコーヒーが好きですか?

私は紅茶もコーヒーも好きですが、毎日欠かさず飲むのはコーヒーです。とはいえ、朝はインスタントですし、あとは、既に挽いてある粉コーヒーをスーパーで買ってコーヒーメーカーで淹れるか、外ならスタバやドトールなどのコーヒーを飲むかという感じで、時にはちゃんとしたコーヒーも飲みますが、本格的なコーヒー屋さんへ行かなければ気が済まないというほどのこだわりはありません。

でも、そうして毎日当たり前のように飲んでいるコーヒーはどうやって提供されているのだろう、そもそもコーヒーにはどういう背景があるんだろうと思っていたので、以前から気になっていたこの映画を見てみました。

「A FILM ABOUT COFFEE」最初のシーンでびっくり

映画が始まった途端に目に飛び込んできたのは、何と、日本語でした。サイフォンで琥珀色のコーヒーができ上がってくるシーンなんですが、そのサイフォンに日本語が書いてあったんです。「あれっ、これはたしかアメリカの映画だったはず……」と思ったら、確かにそこはアメリカのサイフォンカフェでした。

この理由が後に明かされているんですが、実はサイフォンは、もともとスコットランドの造船技師が発明したものを日本人がブラッシュアップして完成させたのだそうです。こんな話、よく聞きますよね。日本人というのは、海外から何かを取り入れたときに、そこから試行錯誤して工夫し、それをどんどん洗練させて完成品へと持っていくのが得意な民族なのかなと思います。

そのサイフォンのメーカー名はわからなかったんですが、少なくとも、この映画の中では日本の喫茶文化がたくさん取り上げられていました。世界中でコーヒーが楽しまれているのだろうに、なぜ日本の喫茶店ばかりがピックアップされていたのか、その深い意味は映画を見終わった今もまだよくわかりません。それほどまでに日本ではコーヒーが愛されているということなんでしょうかね。

コーヒーの来た道

さて、コーヒーはどうやって私たちの日常に存在してくれているのでしょう。

コーヒーは、もともとエチオピアで西暦500~600年に飲まれていたそうです。そこからイエメンに伝わり、インドネシアに伝わり、ヨーロッパに伝わって、1本の木がカリブ海に浮かぶマルティニーク島に入りました。この1本の木が、その後に中南米で育つすべての木の祖先になったそうです。壮大なドラマです!!

そして、驚くことに、コーヒーが広く一般に普及したのは20世紀のことなんだそうです。ごく最近の話なんですね。そういえば、明治25年(1892年)生まれの私の曽祖父が大変な新しいもの好きで、お洒落をしてカフェに出かけ、コーヒーを飲んでいたという話を聞いたことがあります。

ちなみに、スタバの1号店は1971年にシアトルで開店したそうですが、ウィキペディアによると、2015年現在、90の国と地域で2万2,519店舗にまで広がっているらしいので、すさまじい広がり方をしてきたんだなと思います。

日本の珈琲道

この映画では日本の喫茶文化がフィーチャーされていたと先ほど言いましたが、中でも私の心に強く残ったのが、大坊珈琲店 大坊勝次氏のコーヒーをサーブする際の所作でした。

あの無駄のない動きが、私には茶道のお点前のように見えて仕方ありませんでした。丹田に気が座り、空間と一体になっていて、相手を心からもてなそうとする姿勢がびしびし伝わってきました。

私、25年ほど茶道を習っているんですが、抹茶を点てるときの所作というのは、お客様にゆったりと最高のお茶を飲んでもらうための基礎なんですね。ややこしくて堅苦しい決まりを押しつけられているように思われがちですが、まずはあれを体に叩き込んで、そこから本当の道が始まるような気がしています。本当は大坊さんのように自分で探究していく中で作法を編み出すべきなんですが、親切にも茶道では、道を極めた人によって既に編み出された型をまず教えてくれるわけです。

剣道、華道、弓道、柔道、書道など、「道」と名のつくものは大体そうなんじゃないでしょうか。まずは辛くとも型を体に叩き込み、そこから精神性を磨いていくんだろうと思います。それは、たとえ「道」のつくものでなくとも、仕事だったり家事だったり、何事においても多分そうで、何かを極め、そこから人格を高めていこうと思ったら、やはり同じような道をたどるのではないかという気がします。

そういう意味で大坊氏は、まさに「珈琲道」の偉大な師匠です。そのにじみ出る風格が大変素敵で、店に来てくれる人たちに心を込めて謙虚にコーヒーを淹れ続け、その姿勢をどんなときも維持することにより、道を極められたのだろうと思いました。真にすごい方からは、どうして奥ゆかしさや謙虚さを感じるんでしょうね。勝手な想像ですが、きっと大坊さんは、だれに対しても同じように丁寧に接してこられたんだろうと思います。

大坊珈琲店は、ビルの取り壊しのため2013年末で閉店されたとのことで、もう映画の中のあの空間で、あの美しい所作で淹れていただくコーヒーを飲むことはできないんですが、せめて映像で見ることができてよかったなと思います。

コーヒー生産者のほほ笑み

もう一つとても印象的だったのが、バイヤーであるバリスタが生産者のところへ行き、遠い地のカフェでどんなふうにその製品が使われているのか、生産者の人たちにその場で淹れてふるまっているシーンです。

生産者の方々は、淹れてもらったコーヒーやらエスプレッソをおっかなびっくり飲み、うれしそうにニコニコしていました。聞かれない限り何もしゃべらない、聞かれても最小限のことしか言わない、感情を過剰に表明しないのが、何かいいなぁと思いました。

バリスタの方はその農園が生産するコーヒーにほれ込んでおり、自分もその場でコーヒーを飲んで「最高!」という顔をするのですが、その直後に、別カットで撮った農園でのインタビューの中で生産者が「うちの製品がいいことはわかっている」と言葉少なに言っている映像が挟まれていたのが素敵でした。誇りとプライドを持っていい製品を生産していることが伝わってきました。

アフリカや中南米での作業の様子も出てきましたが、過酷な条件で、ほぼすべてを人間の手でおこなっていました。そうすることによってすばらしいスペシャルティーコーヒーができるのだそうです。大量生産のコーヒー豆だって、当然ながら人の手がかけられているものなんだろうと思います。私たちはきれいなカフェで当たり前のようにコーヒーを飲んでいるんですが、ああいう強靭で奥ゆかしい生産者の方が丁寧にコーヒー豆をつくってくれることによって、その空間が存在するんですね。

スペシャルティコーヒーとコモディティコーヒーの違いも改めて認識しました。私には、植民地のプランテーションのようなところで現地の人々を強制的に働かせ、その利益を外部の者が不当に搾取するというようなことが、多かれ少なかまだ続いているんじゃないかという思いがあったんですが、この映画に見られるような、農園と正統な値段で直接取引し、インフラ整備の資金援助をしたりもするという方向に進んでいるのなら、それはとてもいいことだなと感じます。

これからは、そんなこともちょっと考えながら店や豆を選び、大事に1杯のコーヒーを飲もうと思いました。お客の側からも、生産農家にも、バイヤーにも、バリスタにも、ショップの方にも、礼を尽くしたいですもんね。

さてさて、コーヒーが飲みたくなってきました。たしかドーナツがあったはず!

丁寧にコーヒーを淹れて、ゆっくりとコーヒータイムを楽しむことにします。

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