【映画「92歳のパリジェンヌ」と「94歳のニューヨーカー」】生き方とともに死に方を考える

こんにちは、コジです。今日は映画のご紹介です。

突然ですが、皆さん、老人と一緒に住んだことはありますか?

私、生まれてからずっと老人がいる家で暮らしてきました。高校へ入学するころまでは曾祖母もいましたし、祖父母も最近までずっといましたが、4年前に祖父を、3年半前に祖母を亡くしました。曾祖母と祖父は家で死にましたし、祖母は入院した日に死にましたから、ほぼ最後まで家で過ごしたことになります。曾祖母は92歳、祖父は96歳、祖母は90歳まで生きました。

今日ご紹介する2本の映画では、92歳のパリジェンヌのおばあちゃんと、94歳のニューヨーカーのおばあちゃん、それぞれの生き方・死に方を描いています。

映画「92歳のパリジェンヌ」

この映画は、ノエル・シャトレ『最期の教え 92歳のパリジェンヌ』が原案になっています。ノエル・シャトレが娘として母ミレイユ・ジョスパンの人生を綴った本ですが、その実話をもとに、架空の別人のお話として映画化されています。

ミレイユの旦那さん、尊厳死協会の中心的な活動家であったロベール・ジョスパンは既に亡くなっており、90歳を過ぎたミレイユは、パリの階段のないアパルトマンでひとり暮らし。心許せる家政婦さんは来てくれるものの、年齢とともにだんだんできないことが増え、体が思うようにならなくなってくる中で、気力も失っていきます

助産師として、社会活動家として、自分の思うように物を言い、誇り高く行動してきた彼女にとって、ままならない体をだれかに託し、病院で死ぬのは嫌だという思いがずっとあったのだろうと思います。彼女の結婚した相手が尊厳死協会で精力的に活動していた人だったこともあり、それまでにも尊厳死のことをよく考えていたのでしょう。

そして、ついに彼女は決意し、自分の92歳の誕生日会の席で、家族に「2カ月後にこの世を去りたい」と話します。彼女の息子と娘は、それを聞き、最初は双方が拒否します。その後、娘はだんだん母の意志を尊重する方向へと理解を深めていくものの、息子は一切取り合わず、感情に流されて威圧的に強い言葉を母に浴びせ、用意していた死ぬための薬を強引に持ち去ります。息子は、最後まで母の意志を受け入れられず、連絡を絶ったまま最期を迎えます。

印象的だったのは、最後に恋人に会いにいくというシーンです。イメージどおりの恋多きフランス人で、本当にフランス人ってみんなこうなのかしらと思ってしまいました。個が確立されているというか、自由というか、いくつになってもロマンチックな恋ができるんですね。

「自分の最期を自分で決める気力があるうちに。今がそのときなの」という言葉に、自分を客観的に見詰め、決断を下せる強さを感じました。自殺をどう見るかは人それぞれですが、日本でもこれから高齢者がどんどん増えていくわけですから、尊厳死はよく考えていかなければいけない課題なのだろうと思いました。

映画「アイリス・アプフェル! 94歳のニューヨーカー」

この映画は、94歳の今もなお現役でニューヨークのカルチャーシーンに多大な影響を与えるアイリス・アプフェルに迫るドキュメンタリーです。

インテリアデザイナーとしても、実業家としても、服飾コレクターとしても、ファッショニスタとしても、彼女は超一流で、その生命力と躍動感でここまで走り続けてきています。

彼女の場合はご主人が健在で、その100歳の誕生日を祝っているシーンでも、おしどり夫婦ぶりがよく見受けられました。2人で暮らしていることが、お互い心の支えになっているのだろうと思います。アイリスの飽くなき好奇心も、旦那さんがこれまでそういう彼女を愛し、見詰め続けてきたから、いまだ尽きないのでしょう。

しかし、やはり体はだんだん言うことをきかなくなってきます。アイリスも、家で転んで骨折したり、いろいろな検査のために病院に通ったりしています。信頼する家政婦さんはいるんですが、足腰が弱っているので、どうしても杖を突いたり車いすに乗ったりしなければいけません。

自分の老いを感じ、手に入れたものを手放したくないという葛藤はいまだありつつも、やっと物を減らさなければという気持ちになってきて、これまでにコレクションしたものを美術館に寄贈したり、倉庫に眠っている家具などを売ったりし始めている様子が映し出されていました。

持ち前の好奇心とユーモアを武器に、ずっと一線で活躍してきて彼女の今があるわけですが、自分の存在価値を考えるとき、彼女は、可能な限り同じように活躍し続けなければいけないと考えているように見えました。「忙しくしていないと落ち込んじゃう。ずっと家にいてはいけない。重病ではないんだから、外へ出て調子の悪さを忘れるのよ」と言い、その細い体に比して錘のようにも見える何本ものネックレスやブレスレットをつけ、集めた物を処分する辛さにじっと耐えている姿は、ある種の修行者のようにも見えました。

生き方と死に方

この2本の映画で、いずれも強い2人の女性の生きざまを見つつ、私も自分の生き方と死に方に思いをめぐらせました。

人生は無数の選択によって形づくられていきますが、小さなものから大きなものまで、何らかの分かれ道に来たときに、一つ一つ真剣に選択していくことによって、人生が充実したものになっていくのではないかという気がしました。

今日の夕飯を自炊するか外食にするか、今あの人に連絡を入れるか入れないか、自分の罪を素直に認めて謝るか黙っているか、家を買うか買わないか、尊厳死を選ぶか選ばないか、どの道を選んでも、よくよく考えて自分なりに選んだならば、その結果がどうなろうと、それでいいのだろうと思います。

そもそも人生に正解なんてないんですから、自分の納得する道を選べばよしなんです。そして、そうして生きた道の先に、それにふさわしい死がやってくる、私はそう考えています。

私は祖母が大好きでしたから、彼女が亡くなったときには大泣きしました。もちろん意見が対立することもありましたが、チャーミングで、人の悪口を一切言わない、総じてすごい人でした。彼女は昔風の考え方で、祖父と父には絶対に口答えせず、どんなに祖父が理不尽でも大事に扱っていました。私はそれが気に入りませんでしたが、それは彼女の選択です。死ぬ間際まで頭がクリアで、ユーモアを忘れず、祖父が逝った半年後にあっさり亡くなりました。

曾祖母は自宅で8年ほど寝たきりでしたし、認知症もあったので、私としては祖父と祖母の介護もしなければいけないのだろうと思っていたんですが、祖父も祖母も、拍子抜けするぐらいさっぱりと、家族に何の世話もかけずにこの世を去っていきました。

私の勝手な希望としては、この世ですべきことを全部やり切ったら、祖父母を見習って、自殺もせず、延命に執着もせず、さっとさりげなく心臓がとまって死ねたら最高だなと思っています。

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